ジグモの写真
↑ジグモ

こちょうのゆめ Vol.2 「ふるさととは」  

こちょうが東京に来たのはオリンピックの翌年、1965年のことだったらしい。

親の仕事の都合で、東京は高円寺引っ越した。最初に住んだのは国鉄の駅から5分くらいの二丁目にあった木造アパートで、親子4人がひしめき合って暮らしていた。隣家には4歳くらいの女の子がおり、末っ子だったこちょうは妹分ができた気がしてうれしくなったのか、当時自分が最も好んだ遊びによく連れていった。遊びというのは「ジグモ取り」である。地蜘蛛はブロックや竹の生垣が地面と交わる場所に地中5センチほどの深さの穴を掘り、そこに直径5ミリほどの筒状の巣を張っていた。巣の上端は1センチほどが地上にあり、生垣にくっついている。そこをつまんですいーっと引き上げると、チューブ状の巣がスポッと抜ける。巣をちぎって、底におとなしくしているジグモを手のひらにのせる。体長1センチ程度の、複雑だが力強い対称形をした茶褐色の蜘蛛の姿は、当時の少年の胸にはハイテクスーパーカーを見るような感動を生んだ。鑑賞した後は、また巣を作らせるために地上に戻してやる。そうして半年ほど蜘蛛を取り続けたが、妹分の方は早々にこの遊びに飽きたようだ。その後に丸ノ内線の東高円寺駅近くの家に引っ越すこととなった。

当時は既に高度成長が始まっていたが、高円寺ではまだ広大な空き地が残っており、「オバケ屋敷」と呼ばれた空家も多かったので、よく同級生たちと肝試しのつもりで侵入したりした。近所には庭に栗林のある家もあり、こちょうの家のまん前は三角ベースができる大きな空き地であった(今ではそこにマンションが3棟建っている)。道路は舗装されていたが、その両側にはどぶ(側溝)があり、ふたが無かった。生活排水で常に潤うどぶの中には巨大なミミズもいれば、釣りに使うような真っ赤なミミズもいた。体長10〜20cmのヒキガエルも多く棲息していた。桃園川もコンクリートのふたをする前の状態で、幅10cmくらいのコンクリートの橋というか水平の支柱が1.5m程度の間隔で並んでいた。子供たちの間ではこの橋を渡りきることが勇気の証しとなったが、3mほど下を流れる川に落ちるのが怖いのでこちょうは一度だけしか渡らなかった。ギンヤンマやタマムシなど光を放つ虫もいたが、こちょうはアブラゼミとツクツクホーシ専門であった。取ったら逃がす。スポーツの代わりであった。光塩女子学院の池にはアメリカザリガニがいて、駄菓子屋で買ったイカゲソを餌にすると簡単に釣れた。蚕糸試験場のコンクリートの水槽には無数のオタマジャクシがいて、それをすくうのに夢中になって水槽に落ちたこともある。

こちょうが「東京が懐かしい」と思うとき、なつかしいのはこのような虫たちであり、半ズボンとランニングで三角ベースをやった子供たちのことである。そのようなものは、少なくとも東京にはほとんど残っていない。これは爺ちゃんたちが懐かしいと思った明治時代のものが昭和にはなかったという現象と同じことなのか、それとも根本的にそれとは違う変化なのか? こちょうにはわからない。

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