↑めし、電車、麻雀、めし、麻雀、めし、ギター …の毎日(1980年ごろ)

こちょうのゆめ Vol.3 「英語との出会い」  

こちょうが初めて英語を話さなければならない事態に陥ったのは、小学校6年生の時だった。

こちょうの父は、日本企業に勤務したことがなかった。旧制中学を出るころ終戦を迎えたが、敵性語であった英語には非常に興味を持った。学校では勿論生きた英語なぞ学べなかったし、人前で英語を使うのは非国民のすることであった。しかし密かに暖めた英語の知識をもって、列車の中では占領軍の兵士に「ギミーチョコレート」以上の会話を挑み、気に入ってもらった兵士のいるキャンプに泊り込んで生活を送ったりした。かくして卒業後は米軍キャンプの通訳/秘書官的な仕事をすることになった。

 「語学をメシの種にするな」とは、父の口癖であった。昭和一ケタ世代では父のような人は稀であったので、英語ができるだけでも十分な仕事があった。しかし息子であるこちょうの世代では、英語のできる人なんてのは掃いて捨てるほどいるはずだから、語学だけでは食べてゆけないという発想であった。

 オキュパイドジャパンの時代が去り、キャンプも閉鎖となった後、父は外資系のカーペットや石油ストーブなどの会社に何年かずつ勤めた。勤めたというよりはベンチャー的に副社長を買って出たようである。しかし何年か事業を続けるうちに期待を裏切られる。「あいつらは日本なんて後進国だから商品送ってやるだけ有難く思えという考えで、不良品の山ばかりを送ってくる。何にもわかっとらん。」

 四十代中盤で腎臓結石を患った父は、もっと安定した職場を求めて英国大使館に勤務することにした。父は姉とこちょうに言った。「お前らを育てる責任があるから、俺は冒険をやめる。」(そんな、恩着せがましいことを言わずに、もっと冒険してくれればいいのに。おれなんか、みなしごとして生まれたかったのに。)「タイガーマスク」に影響を受けていた小学校5年のこちょうは思った。

 冒頭に述べた通り、六年の冬にはそうして父が就職した英国大使館の子供向けクリスマスパーティーに行くことになった。千鳥ヶ淵の大使館内の会場には、大使や書記官の賢そうな子弟たちが集っていた。日本人職員の子供は、ほとんどいなかった。覚えた英語は「How do you do?」「My name is.…」だけであった。これでは会話にならず、賢い子供たちは皆肩をすくめて、硬直するこちょうの前から去っていった。言いようのない屈辱感につつまれ、わけのわからない賛美歌を歌ってから、こちょうは家に帰った。畜生、畜生、畜生。このときの思いが、自分をアメリカに連れてきているとも思う。

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